日蓮が慈悲曠大(じひこうだい)ならば南無妙法蓮華経は万年の外・未来までもなが(流布)るべし、日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり、無間地獄の道をふさぎぬ
凡眼を以て定むべきにあらず浅智を以て明(あきら)むべきにあらず、経文を以て眼とし仏智を以て先(さき)とせん
我日本の柱とならむ我日本の眼目とならむ我日本の大船とならむ
抑(そもそも)今の時・法華経を信ずる人あり・或は火のごとく信ずる人もあり・或は水のごとく信ずる人もあり、聴聞する時は・もへたつ(燃立)ばかりをも(思)へども・とを(遠)ざかりぬれば・すつる心あり、水のごとくと申すは・いつも・たい(退)せず信ずるなり
曼荼羅と云うは天竺(てんじく)の名なり此(ここ)には輪円具足とも功徳聚(くどくじゅ)とも名くるなり、此の御本尊も只信心の二字にをさまれり以信得入とは是なり
あい(藍)は葉のとき(時)よりも・なおそむ(染)ればいよいよあを(青)し、法華経はあいのごとし修行のふか(深)きは・いよいよあを(青)きがごとし
今の世は濁世なり人の情(こころ)もひがみゆがんで権教謗法のみ多ければ正法弘まりがたし此の時は読誦書写の修行も観念・工夫・修練も無用なり、只折伏を行じて力あらば威勢を以て謗法をくだき又法門を以ても邪義を責めよとなり
や(箭)のはしる事は弓のちから・くものゆくことはりう(竜)のちから、をとこ(夫)のしわざはめ(婦)のちからなり、いまときどの(冨木殿)のこれへ御わたりある事尼ごぜんの御力なり、けぶり(煙)をみれば火をみる、あめをみればりう(竜)をみる、をとこ(夫)をみればめ(婦)をみる
所居(しょご)の土は寂光本有(じゃっこうほんぬ)の国土なり能居(のうご)の教主は本有(ほんぬ)無作(むさ)の三身なり所化以て同体なり
なにと・なくとも一度の死は一定なり、いろ(色)ばしあしくて人に・わらはれさせ給うなよ
不軽(ふぎょう)菩薩は杖木・瓦石(がしゃく)と見えたれば杖の字にあひぬ刀の難はきかず、天台・妙楽・伝教等は刀杖不加と見えたれば是又か(欠)けたり、日蓮は刀杖の二字ともに・あひぬ、剰(あまつさ)へ刀の難は前に申すがごとく東条の松原と竜口(たつのくち)となり
日蓮は日本第一の法華経の行者なりすでに勧持品の二十行の偈(げ)の文は日本国の中には日蓮一人よめり
仏は真に尊くして物によらず、昔の得勝童子は沙(いさご)の餅(もちい)を仏に供養し奉りて阿育(あそか)大王と生れて一閻浮提(えんぶだい)の主たりき、貧女の我がかしら(頭)をおろ(剃)して油と成せしが須弥山(しゅみせん)を吹きぬきし風も此の火をけさず
女子(おなご)は門をひら(開)く・男子(おのこご)は家をつ(継)ぐ・日本国を知つても子なくは誰にか・つがすべき、財を大千にみて(満)ても子なくば誰にかゆづ(譲)るべき、されば外典三千余巻には子ある人を長者といふ、内典五千余巻には子なき人を貧人といふ
大石寺は御堂と云ひ墓所と云ひ日目之を管領し修理を加へ勤行を致し広宣流布を待つべきなり
早く邪法邪教を捨て実法実教に帰す可し、若し御用い無くんば今生には国を亡し身を失い後生には必ず那落(ならく)に堕す可し
法の恩を申さば法は諸仏の師なり諸仏の貴き事は法に依る、されば仏恩を報ぜんと思はん人は法の恩を報ずべし
叡山守護(えいざんしゅご)の天照太神・正八幡宮・山王七社・国中守護(しゅご)の諸大善神法味を□(くら)わずして威光を失い国土を捨て去り了んぬ、悪鬼便りを得て災難(さいなん)を致し結句(けっく)他国より此の国を破(やぶ)る可き先相(せんそう)勘(かんが)うる所なり
口に妙法をよび奉れば我が身の仏性もよばれて必ず顕れ給ふ、梵王・帝釈の仏性はよばれて我等を守り給ふ、仏菩提の仏性はよばれて悦(よろこ)び給ふ
父母はまう(易儲)けやすし法華経はあひがたし、今度あひやすき父母のことばを・そむきて・あいがたき法華経のとも(友)にはなれずば我が身・仏になるのみならず・そむきしをや(親)をもみちびきなん
親は十人の子をば養へども子は一人の母を養ふことなし、あた(暖)たかなる夫(おっと)をば懐きて臥(ふ)せどもこご(凍)へたる母の足をあたたむる女房はなし
総じて成仏往生のなりがたき者・四人あり第一には決定(けつじょう)性の二乗・第二には一闡提人・第三には空心の者・第四には謗法の者なり、此等を法華経にをいて仏になさせ給ふ故に法華経を妙とは云うなり
水の如きの行者と申すは水は昼夜不退に流るるなりすこしもやむ事なし、其の如く法華経を信ずるを水の行者とは云うなり
人の地に依りて倒れたる者の返つて地をおさへて起(たつ)が如し――信ぜん人は仏になるべし謗ぜん者は毒鼓(どっく)の縁となつて仏になるべきなり、何(いか)にとしても仏の種(たね)は法華経より外になきなり
寿量品をしらざる諸宗の者は畜に同じ不知恩の者なり
只須(すべから)く汝仏にならんと思はば慢のはた(幢)ほこをたを(倒)し忿(いか)りの杖をすてて偏に一乗に帰すべし、名聞名利は今生のかざり我慢偏執(がまんへんしゅう)は後生のほだし(紲)なり、嗚呼(ああ)恥づべし恥づべし恐るべし恐るべし
我並びに我が弟子・諸難ありとも疑う心なくば自然に仏界にいたるべし、天の加護なき事を疑はざれ現世の安穏ならざる事をなげかざれ、我が弟子に朝夕教えしかども・疑いを・をこして皆すてけんつた(拙)なき者のならひは約束せし事を・まことの時はわするるなるべし
今末法に入りぬれば余経も法華経もせん(詮)なし、但南無妙法蓮華経なるべし―― 此の南無妙法蓮華経に余事をまじ(交)へば・ゆゆしきひが(僻)事なり
叶ひ叶はぬは御信心により候べし全く日蓮がとがにあらず、水すめば月うつる風ふけば木ゆるぐごとく・みなの御心は水のごとし信のよは(弱)きはにご(濁)るがごとし、信心の・いさぎよきはす(澄)めるがごとし、木は道理のごとし・風のゆるがすは経文をよむがごとしと・をぼしめせ
若き夫妻等が夫は女を愛し女は夫をいとおしむ程に・父母のゆくへ(行方)をしらず、父母は衣(ころも)薄(うす)けれども我はねや(閨)熱(あつ)し、父母は食せざれども我は腹に飽(あ)きぬ、此は第一の不孝なれども彼等は失(とが)ともしらず況(いわん)や母に背(そむ)く妻・父にさか(逆)へる夫・逆重罪にあらずや