此の本法を受持するは信の一字なり、元品の無明を対冶する利剣は信の一字なり無疑臼信(むぎわっしん)の釈之を思ふ可し
行学の二道をはげみ候べし、行学たへ(絶)なば仏法はあるべからず、我もいたし人をも教化候へ、行学は信心よりをこるべく候
三十三のやく(厄)は転じて三十三のさいはひ(幸)とならせ給うべし、七難即滅・七福即生とは是なり、年は・わかう(若)なり福はかさなり候べし
相構(あいかまえ)え相構えて強盛の大信力を致して南無妙法連華経・臨終正念と祈念し給へ、生死一大事の血脈此れより外に全く求むることなかれ、煩悩即菩提・生死即涅槃とは是なり、信心の血脈なくんば法華経を持つとも無益なり
一念三千の観法に二つあり一には理・二には事なり天台・伝教等の御時には理なり今は事なり観念すでに勝る故に大難又色まさる
安州の日蓮は恐くは三師に相承し法華宗を助けて末法に流通す三に一を加えて三国四師と号(なず)く
未だ広宣流布せざる間は身命を捨て随力弘通を致す可き事
竜女が成仏此れ一人にはあらず一切の女人の成仏をあらはす――挙一例諸(こいちれいしょ)と申して竜女が成仏は末代の女人の成仏往生の道をふみあけたるなるべし
獅子王の如くなる心をもてる者必ず仏になるべし例せば日蓮が如し
法に依つて阿鼻地獄に堕する者は大地(だいち)の微塵(みじん)よりも多く法に依つて生死を離るるものは爪上(そうじょう)の土よりも少し
日蓮によ(依)りて日本国の有無はあるべし、譬へば宅(いえ)に柱なければ・たもたず人に魂(たましい)なければ死人なり、日蓮は日本の人の魂なり
過去の生死・現在の生死・未来の生死・三世の生死に法華経を離れ切れざるを法華の血脈相承とは云うなり
をなじくは・かり(仮)にも法華経のゆへに命をすてよ、つゆ(露)を大海にあつらへ・ちり(塵)を大地にうづ(埋)むとをもへ
かつ(餒)へて食をねがひ・渇して水をした(慕)うがごとく・恋いて人を見たきがごとく・病にくすり(薬)をたのむがごとく、みめ(形容)かたちよき人・べにしろ (紅粉) いものをつくるがごとく・法華経には信心をいたさせ給へ、さなくしては後悔あるべし
釈迦仏は・我を無量の珍宝を以て億劫の間・供養せんよりは・末代の法華経の行者を一日なりとも供養せん功徳は百千万億倍・過ぐべしとこそ説かせ給いて候
日蓮は東海道・十五箇国の内・第十二に相当る安房の国長狭(ながさ)の郡・東条の郷・片海(かたうみ)の海人(あま)が子なり
一経の肝心たる題目を我も唱へ人にも勧(すす)む、麻(あさ)の中の蓬(よもぎ)・墨うてる木の自体は正直ならざれども・自然に直(す)ぐなるが如し経のままに唱うれば・まがれる心(こころ)なし
今日本国の法華経をかたきとしてわざわいを千里の外よりまねきよせぬ――法華経を信ずる人は・さいわいを万里の外よりあつむべし
法華経をよむ人の此の経をば信ずるよう・なれども諸経にても得道な(成)るとおもうは此の経をよまぬ人なり
妙法とは有情の成仏なり蓮華とは非情の成仏なり、有情は生の成仏・非情は死の成仏・生死の成仏と云うが有情非情の成仏の事なり
大事には小端 (ずい)なし、大悪をこ (起)れば大善きたる、すでに大謗法 (ほうぼう)・国にあり大正法必ずひろまるべし、各各なにをかなげ (歎)かせ給うべき、迦葉(かしょう)尊者にあらずとも・まい(舞)をも・まいぬべし、舎利弗 (しゃりほつ)にあらねども・立つてをど(踊)りぬべし、上行菩薩 (じょうぎょうぼさつ)の大地よりいで給いしには・をど (踊)りてこそい (出)で給いしか
一心に仏を見る心を一にして仏を見る一心を見れば仏なり、無作の三身(じん)の仏果(ぶっか)を成就せん事は恐くは天台伝教にも越へ竜樹(りゅうじゅ)・迦葉(かしょう)にも勝れたり
法華経に勝れたる経之れ有りと云わん者を諌暁(かんぎょう)せよ止まずんば現世に舌口中に爛(ただ)れ後生は阿鼻地獄(あびじごく)に堕すべし
末法に入て今日蓮が唱る所の題目は前代に異り自行化他に亘(わた)りて南無妙法連華経なり
仏になる道は必ず身命をすつるほどの事ありてこそ仏にはなり候らめと――いたづらに・くちん身を法華経の御故に捨てまいらせん事あに石に金(こがね)を・かふるにあらずや
心地観経に曰く「過去の因を知らんと欲せば其の現在の果を見よ未来の果を知らんと欲せば其の現在の因を見よ」
仏法は摂受(しょうじゅ)・折伏(しゃくぶく)時によるべし譬(たとえ)ば世間の文・武二道の如し
法自ら弘まらず人・法を弘むる故に人法ともに尊し
受くるは・やすく持つはかたし・さる間・成仏は持つにあり、此の経を持たん人は難に値(あ)うべしと心得て持つなり