嗚呼(ああ)受け難き人界の生をうけ値(あ)い難き如来の聖教に値い奉れり一眼の亀の浮木(うきぎ)の穴にあへるがごとし、今度(このたび)若(も)し生死(しょうじ)のきずなをきらず三界の籠樊(ろうはん)を出でざらん事かなしかるべし・かなしかるべし
法華経は種(たね)の如く仏はうへての如く衆生は田の如くなり、若し此等の義をたがへさせ給はば日蓮も後生は助(たす)け申すまじく候
日蓮をいやしみて南無妙法蓮華経と唱えさせ給はぬは小児が乳をうたがふて・なめず病人が医師(くすし)を疑いて薬を服せざるが如し
弥(いよいよ)信心をはげみ給うべし、仏法の道理を人に語らむ者をば男女僧尼必ずにくむべし、よしにく(憎)まばにくめ法華経・釈迦仏・天台・妙楽・伝教・章安等の金言に身をまかすべし、如説修行の人とは是れなり
大地の動ずる事は人の六根の動くによる、人の六根の動きの大小によつて大地の六種も高下あり
総じて日蓮が弟子檀那等・自他彼此の心なく水魚の思(おもい)を成して異体同心にして南無妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり
願くは我が弟子等は師子王の子となりて群狐に笑わるる事なかれ、過去遠遠劫より已来日蓮がごとく身命をすてて強敵の科(とが)を顕せ・師子は値いがたかるべし
法華経の一字は大地の如し万物を出生す、一字は大海の如し衆流を納む・一字は日月の如し四天下を照す、此の一字変じて仏となる、稲(いね)変じて苗(なえ)となる・苗変じて草となる・草変じて米となる・米変じて人となる・人変じて仏となる
只(ただ)得難きは人身値い難きは正法なり汝早く邪を翻(ひるが)えし正に付き凡を転じて聖を証せんと思はば念仏・真言・禅・律を捨てて此の一乗妙典を受持すべし
我が弟子仰(あお)いで之を見よ此れ偏(ひとえ)に日蓮が貴尊なるに非ず法華経の御力の殊勝なるに依るなり、身を挙ぐれば慢ずと想い身を下せば経を蔑(あなど)る松高ければ藤長く源深ければ流れ遠し、幸なるかな楽しいかな穢土(えど)に於て喜楽(きらく)を受くるは但(ただ)日蓮一人なる而已(のみ)
有情の第一の財は命にすぎず此れを奪う者は必ず三途に堕(お)つ――法華経の寿量品は釈迦如来の不殺生戒の功徳に当つて候品ぞかし
ね(根)ふかければは(葉)かれず・いづみ(泉)に玉あれば水たえずと申すやうに・御信心のねのふかく・いさぎよき玉の心のうちに・わたらせ給うか
各各我が弟子たらん者は深く此の由(よし)を存ぜよ設(たと)い身命に及ぶとも退転(たいてん)すること莫(なか)れ
父母の成仏即ち子の成仏なり、子の成仏・即ち父母の成仏なり
自身仏にならずしては父母をだにもすく(救)いがた(難)し・いわうや他人をや――目連が色身は・父母の遺体なり目連が色身仏になりしかば父母の身も又仏になりぬ
父母の御恩は今初めて事あらたに申すべきには候はねども・母の御恩の事殊に心肝に染みて貴くをぼへ候
いかに日蓮いのり申すとも不信ならばぬ(濡)れたるほくちに・火をうちかくるが・ごとくなるべし、はげみをなして強盛に信力をいだし給うべし
正像二千年の大王よりも後世ををもはん人人は末法の今の民にてこそあるべけれ此を信ぜざらんや、彼の天台の座主(ざす)よりも南無妙法蓮華経と唱うる癩人(らいにん)とはなるべし
順次生に必ず地獄に堕つべき者は重罪を造るとも現罰なし一闡提人(いっせんだいにん)これなり
実相と云うは妙法蓮華経の異名なり、諸法は妙法蓮華経と云う事なり、地獄は地獄のすがたを見せたるが実の相なり、餓鬼と変ぜば地獄の実のすがたには非ず、仏は仏のすがた凡夫は凡夫のすがた、万法の当体のすがたが妙法蓮華経の当体なり
月月・日日につよ(強)り給へ・すこしもたゆ(撓)む心あらば魔たよりをうべし
聖人と申すは委細(いさい)に三世を知るを聖人と云う――日蓮は一閻浮提第一の聖人なり
人の悦び多多なれば天に吉瑞をあらはし地に帝釈の動あり、人の悪心盛なれば天に凶変地に凶夭出来す、瞋恚(しんに)の大小に随いて天変の大小あり地夭も又かくのごとし、今日本国・上一人より下万民にいたるまで大悪心の衆生充満せり、此の悪心の根本は日蓮によりて起れるところなり
謗法と申すは違背(いはい)の義なり随喜と申すは随順(ずいじゅん)の義なり
南無妙法蓮華経とばかり唱へて仏になるべき事尤(もっと)も大切なり、信心の厚薄によるべきなり仏法の根本は信を以て源とす
日蓮がたましひ(魂)をすみ(墨)にそめながして・かきて候ぞ信じさせ給へ・仏の御意(みこころ)は法華経なり日蓮が・たましひは南無妙法蓮華経に・すぎたるはなし
仏は四十余年・天台大師は三十余年・伝教大師は二十余年に出世の本懐を遂げ給う、其中の大難申す計りなし先先に申すがごとし、余は二十七年なり其の間の大難は各各かつ(且)しろしめせり
天台の学者・慈覚よりこのかた玄・文・止の三大部の文をとかく・れうけん(料簡)し義理をかまうとも・去年のこよみ(暦)昨日の食のごとし・けう(今日)の用にならず
仏道に入つて理非を勘(かんが)へ見るに仏法の邪正は必ず得通自在にはよらず是を以て仏は依法不依人と定め給へり
所詮(しょせん)真言・禅宗等の謗法(ほうぼう)の諸人等を召し合せ是非を決せしめば日本国一同に日蓮が弟子檀那と為り、我が弟子等の出家は主上・上皇の師と為らん在家は左右(さいう)の臣下に列(つら)ならん、将(はた)又一閻浮提(えんぶだい)皆此の法門を仰がん
一とは妙なり心とは法なり欲とは蓮なり見とは華なり仏とは経なり、此の五字を弘通せんには不自惜身命(ふじしゃくしんみょう)此なり